「俺ァ、が好きだ」
は襖の向こう側で土方がそう言ったのを聞いてしまった。
お盆に乗っている二人分の湯呑みに入れた茶の表面が微かに揺れる。
声を出してはいけないと思う以前に、声を出すことすらできなかった。
好き?土方さんが…私を?
は驚きの衝撃を受けながらも、頭の中で必死に整理する。
土方は見ず知らずの自分を助けてくれた恩人だ。
それに、ここ一ヶ月間一緒にいて、魅力的な人だと思っていた。
その彼が自分を好きだというならば、それは自分にとって喜ばしいことだ。
だが、は戸惑った。
この胸の動悸は、嬉しいとか、恥ずかしいとか、そういう類ものではない。
何かが違う。
どうしてなのかはわからない。
だが、直感的にそう感じてしまった。
仕事を一通り終え、は縁側に座って一休みする。
あの後、は間を置いて近藤と土方に茶を持っていった。
どうやら立ち聞きしていたことはばれていないようで、二人ともいつも通りだった。
『おお、ありがとな。よく気が利くよ、は』
『お前も休憩ぐらい取れよ』
いつも通り、二人は優しかった。
土方に好かれているのに、どうしてこんなにも居た堪れない気持ちになるのだろう。
は先程自分が干した洗濯物を眺めながら考え込む。
もしかしたら、自分がなくした記憶に関係があるのかもしれない。
だが、今まで一度も思い出そうとはしなかった。
記憶がなくとも、今は真選組の人たちが自分に良くしてくれている。
ふと、は自分の後ろ髪に挿してある簪を手に取って見た。
目覚めてから一年、何かある度にこの簪を見続けてきた。
自分でもよくわからないが、この桜の花が見たくなる。
この簪は、記憶をなくす以前から自分が持っていた物だ。
もしかしたら、この漆黒の奥に眠る自分の過去に囚われているのかもしれない。
「どうしたんですかィ?」
ははっとして声がしたほうへ振り向いた。
自分のすぐ傍にいつの間にか沖田が立っていた。
「そんなに暗い顔して、さんらしくありませんぜ?」
「沖田さん…」
「悩みがあるなら聞いてあげまさァ。俺、今暇なんで」
真選組の人たちはみんな何気なく優しいとは思う。
沖田のことだから暇なのではなく、きっと仕事はあってサボっているだけなのだろう。
それでも、は自分に気をかけてくれたことが嬉しかった。
だが、そんな彼らに自分のことで心配させるようなことはしたくない。
「いえ、何でもありませんよ。ただ、少し疲れてしまったのかもしれませんね」
「そうですかィ。気をつけてくだせェ。俺ァまた男が作った飯食う生活は嫌ですから」
まるで子どものような沖田の言い分にはクスクス笑いながら頷いた。
笑い声を押さえようと口元に持っていった手には先程の簪が握られている。
その事と、ある人物のことをは思い出した。
「沖田さん、万事屋さんがどちらにご在宅か知っていらっしゃいますか?」
はかぶき町にある万事屋を訪ねた。
正面には先日会った銀時がぼーっとした顔で座っている。
「どうかなさいましたか?」
「…いや、アンタがここに来るなんて思ってもなかったからよ」
「ちょ、銀さん!お客に向かって何そんな口きいてんですか!!」
「いいんだよ〜。この子とは知り合いなの〜。なァ?」
銀時は新八の突っ込みを軽々と退け、に同意を求めた。
もにっこり笑って頷く。
すると、神楽が酢昆布をしゃぶりながら部屋の奥から出てきた。
「このべっぴんさん、誰アルか?」
「オォイ!神楽ちゃんまで!」
「真選組の女中さんだよ」
「はい。と申します」
次の瞬間、部屋の片隅に置いてある洋服箪笥の扉がガタッと動いた。
どういう訳か新八が顔色を変えてすぐさまその箪笥を押さえにかかる。
「あの箪笥、どうも戸の締まりが悪くてね〜。時々あーして押さえつけなきゃならんのよォ〜」
「はぁ、そうですか…」
「まァ、んなことはどうでもいいとして。今日は何しに来てくれちゃったのかな?」
話題を変えて銀時はをじっと見据えた。
銀時の目はまるで妹の話を聞いてやる兄のような優しい目だった。
彼になら安心して頼むことができるとは思った。
「万事屋さんに依頼をさせて頂きに参りました」
「依頼?」
「はい。けれど、その前にお話をしなければならないことがあります」
は銀時の目をしっかり見据えて話し始める。
「数年前、私は川の岸辺で倒れていたところを土方さんに助けられました。
その時は意識を失っていたのですが、一年前にやっと目覚め、今はこうして元気になりました。
…けど、自分の名前以外、過去のことは何も覚えていないのです」
銀時はそれを聞いて眉をひそめた。
新八が押さえつけていた箪笥も大人しくなった。
は自分の後ろ髪に挿してある簪を抜き、テーブルの上に置く。
「この簪は、記憶をなくす以前から身につけていた物です。
しかし、助けられた当時、私は年端も行かない子どもだったといいます。
このような高尚な品、自分では買えないでしょうから、きっと誰かに頂いたのだと思います」
は一息ついてから本題に入る。
「この簪をくださった方を捜し出して、この簪を渡して頂きたいのです」
「…それァつまり」
銀時は簪を一瞥してからを見た。
その表情は他人事を聞いてるとは思えなくらい、酷く真剣だった。
「自分はそいつに会おうとは思わないってことか?」
銀時の問いには一瞬、言葉が詰まった。
まさか、そんなことを訊かれるとは思っていなかったのだ。
だが、その答えは既に出ている。
「会おうとは思っておりません」
「もしかしたら、そいつと会うのがきっかけで記憶が戻るかもしれねーじゃねーか。
それを放棄して、簪だけ渡して一体どうなるってんだか、俺にはさっぱり…」
そこまで言って銀時はぴたりと止まった。
何か行き当たるところがあったようで、は次の言葉を待った。
「…記憶を取り戻そうとも思ってないってことか」
今度は問い掛けではなかった。
図星を指されて、は胸が締めつけられるような居た堪れない気持ちになった。
銀時から目線を外して、先程テーブルの上に置いた自分の簪を見る。
「本当に忘れてしまいたいことがあって、それで忘れてしまったのではないかと。
そう思ってしまって。この簪を見ていると、余計その過去に囚われてしまいそうで…」
「それで、簪をくれた奴に返そうってか」
「…記憶をなくしても尚、私はこの簪を肌身離さず持っていました。
きっと、この簪をくださった方は私にとって大切な人だったのだと思います」
は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。
この簪を手放すのは、とても忍びない。
大切だったと思うその人のことさえ思い出せないことも。
だが、これ以上、姿の見えない過去に囚われていては駄目なのだ。
「だから、もしその方が見つかったら、簪を渡して伝えてください」
『俺ァ、が好きだ』
今、大切だと思う人に応えるために。
「私は今、幸せです、と…」
万事屋を後にして、は屯所へ帰る道を歩く。
赤く染まりつつある向こうの空を見つめながら、一歩一歩草履で土を踏み締める。
『ごめんなさい。こんなことを頼んでしまって』
『…いやいや、いーんだよ。俺ァ万事屋ですから』
依頼を引き受けてくれた銀時は何故か哀しげな面持ちをしていた。
もしかしたら、彼も自分と同じような境遇があったのかもしれない。
がそう考えていると、銀時も記憶喪失になったことがあると神楽が言った。
『けど銀ちゃん、ちゃーんと私たちのこと思い出したネ』
その時は嬉しかったと神楽はにこっそり耳打ちした。
ああ、なんて可愛いんでしょう。
彼女と同じ年の頃が自分にもあったはずなのに、それを覚えていない。
不思議なものだとは思った。
記憶を取り戻したからといって、そこに喜びばかりがあるわけではない。
そこにあるのは、つらいこと、苦しいことばかりなのかもしれない。
もしかしたら、喜びなど一つもないのかもしれない。
思い出したくないと思うのは、いけないことなのだろうか?
『おお、ありがとな。よく気が利くよ、は』
『悩みがあるなら聞いてあげまさァ』
近藤さんも、沖田さんも、みんな優しい人。
これからもずっと彼らと共にいたい。
『俺ァ、が好きだ』
私も、土方さんが好き。
今はまだ、あの言葉を真正面から受け止めることはできないけれど。
いつか、きっと応えることができるはず。
早く帰ろう。
帰って、あの人たちのために夕飯を作ろう。
まだ、は知らなかった。
物陰から密かに自分を狙っている者がいることを。
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