背後から一歩、また一歩と、何者かが近づいてくる気配がする。
それがやがて自分の近くで止まったのをきっかけに、高杉はそちらへ悠然と振り向いた。

「…よォ」

そこには銀髪の侍が立っていた。
高杉はにやりと口元にだけ笑みを浮かべ、彼を見据える。

「ヅラがいつものお節介で来るかと思っていたんだが、お前さんが来るとはなァ…銀時」

銀時は何も言わず、無表情で高杉と対峙している。
高杉は手に持っていた煙管を一口吸い、煙を吐き出してから続けた。

「何しに来た」

その問いに銀時はやっと反応を示した。
銀時もまた、口元にだけ笑みを浮かべる。

「ちょいと、てめーと昔話でもするかと思ってな」

「そんなもんはヅラとでもしてろや。俺たちが語れるのは…もう、これだけだろ?」

高杉は腰に挿してある刀を僅かだけ抜き、鞘との間にできた隙間から怪しく光る刀身を見せつける。
俺たちはもう、互いの刀を交えることしができない、と。
だが、銀時は敢えてそれを無視した。

「ヅラよりもお前のほうが詳しいだろ。あの子のことは」

それを聞いて高杉は鞘から刀を抜かないままぴたりと止まった。
銀時が優しげにあの子と呼ぶのは一人しかいない。
自分が忘れたはずの、あの少女、ただ一人。

「俺、ぶっちゃけ妬いてたんだよなァ。あの子、お前にばっか引っ付いてたから」

何のお構いもなく銀時は話を続ける。
高杉は自分の奥底にいる獣が呻き声を上げ始めたのを感じた。

「兄貴分は俺なのに?お前もあの子には甘いから、おにーさん困っちゃったよホント」

やめろ。

「口を開きゃァ、高杉さん高杉さんって」

やめろ。

「お前の何処が良かったんだろーなァ、あの子は」


やめろ。




高杉が少女を初めて見たのは、自分が師事する松陽の私塾でだった。
小さなその身体を隠すかのように少女は松陽の着物を袖を掴んで身を寄せていた。
新しく入ってきた塾生か、と高杉は最初思ったのだが、どうも様子が違う。
高杉がその旨を尋ねてみれば、松陽は自分のもとで暮らすことになった子だと答えた。

その時、少女の素性を高杉はまだ知らなかった。
だが、松陽のもとで暮らすというのなら、銀時と同じような事情があるのだろう。
ただそれだけを察して、高杉は松陽にしがみついている少女を見下ろした。

高杉よりも幾分か幼いその少女は頬を薄紅色に染めて彼を見上げていた。
この時から既に、少女の高杉好きは始まっていたらしい。


『高杉さん』

当時、人見知りが激しかった少女だが、高杉にはよく懐いた。
高杉も自分の言うことを素直に聞いて無邪気に笑う少女のことを気に入っていた。
少女は兄貴分の銀時と一緒いることが多かったのだが、それと同じくらい高杉と一緒にいた。

だが、それ以上に少女は松陽の傍にいた。
二人は傍から見れば、本当の親子のようだった。
松陽は少女を慈しみ、少女もまた松陽を敬い、純真無垢に育った。
高杉は二人が共にいる空間が好きだったし、そうであるべきだとも思っていた。
自分さえも踏み込めない、絶対的な聖域。


それを踏みにじったのは、幕府だった。
攘夷論を掲げていた吉田松陽への入獄命令。
後に、松陽は幕府によって刑死に処された。

高杉の世界は途端に色褪せてしまった。
松陽が教えてくれた世界は、あんなにも輝いて見えたというのに。
この世界は、結局その程度のものだったのか。

松陽の死を知らされてから、自分の考えというものが全くまとまらなかった。
暫くしてから、高杉は松陽と時を過ごした私塾へ向かった。

私塾には銀時と桂がいた。
深刻な表情で何を話しているかと思えば、残された少女のことだった。

『まだ、あの子に話していないのだ』

松陽がもう、この世にいないということを。
桂からそれを聞いて高杉は憤慨した。

『何で話さねェ』

『こんなこと、あの子には衝撃が大きすぎる。今はまだ知らぬほうが…』

『いずれ知ることだろうが。俺たちが教えないで、誰が教えるってんだ』

『だが、しかし…』

桂では埒が明かない。
高杉は少女の兄貴分である銀時に同意を求めようとした。
だが、銀時はいつも手放さない刀を腕に抱き、俯いてじっと座り込んでいる。
鬼でも生まれそうだ、と高杉は身震いを感じた。
恐怖ではない、自分と同じだと思ったのだ。

『…てめーらが行かねェなら、俺が行く』

『高杉…!』

桂の呼び止めを無視して高杉は少女のもとへ向かった。
今、この状況下では自分しかいない。


彼女の本当の両親はもうこの世にはいない。
高杉が獄中の松陽から密かに受け取った手紙に、少女についてそう書かれていた。

父親は小悪党の一味、母親もその手の女だった。
少女は望まれて生まれたわけではなく、その両親から酷い扱いを受けていたという。
それがある日、もともと仲睦まじくはなかった両親が争い、激情した父親が母親を殺害。
後に父親は獄に入れられ、今までの悪行も含めて刑死という形で罰せられた。
結局、少女は一人残された。



名前も元からあったのかなかったのか定かではないが、呼ばれていなかったらしい。
他に身寄りもなく、名前も知らない少女を松陽は引き取り、彼女にこの名前を与えた。

、いるのか?』

いつもがいる松陽の寝室の前で高杉は呼びかけた。
程なくして部屋の戸が開き、見下ろせばがいた。

『高杉さん…』

『話がある。中へ入っていいか?』

はこくりと頷き、高杉を部屋の中へ促す。
部屋の中は以前と変わらず、綺麗に整頓され、塵一つ落ちていなかった。
多分、松陽がいつ帰ってきてもいいように、がしっかり掃除をしているのだろう。
だが、もう…

『…松陽先生は』

前置きもなく、高杉はを見据えて口を開いた。
事実を話さなければならない。


『もう、帰って来ねェ』


その言葉に、は何も言わず呆然とした。
高杉は尚も言葉を続けた。

『あの人は死んだ。幕府に…殺された』

どんなに言葉が醜く残酷でも、それが事実。
には受け止めてもらうしかないと思った。
そうしなければ前へ進めない、も…自分自身も。

は只々、大きく目を見開いていた。
理解できなかったのだろうか、と高杉が困惑し始めた、その時だった。

『…!?』

は何の前触れもなく駆け足で部屋を飛び出した。
高杉も戸惑いながら彼女の後を急いで追う。
ドタドタドタと廊下を抜け、縁側からは草履も履かずに庭へ出た。
丁度夕立の時で、外は大きな雨粒が降り出していた。


『…っ松陽先生ぇ!』


は雨に濡れながら、松陽の名を暗い空に向かって精一杯叫んでいた。
その姿に高杉は思わず立ち止まってしまう。

『松陽先せっ…松陽せんせぇ…』

いくら呼んでも、もう帰っては来ないというのに。
先程の勢いはなく、はトボトボと歩いていたが、泥濘で突如転倒した。
そして、何故かそのまま起き上がらない。

『おい、…!』

高杉も縁側からそのまま庭へ出て、を起き上がらせに行った。
はなの身体は震えていて、抱き起こして顔を覗けば、彼女は泣いていた。
どうすればいいのか、高杉はわからなかった。

『帰って来るって…』

が嗚咽を漏らしながら、嘆く。

『松陽先生…がいい子にしてたら、必ず帰って来るって…言ってたのにっ』

…』

『私、いい子じゃなかった…?私の、せいで…』

ッ!』

『ごめんなさいっ…ごめんなさい…』

『違ェ!お前は悪くねェ!』

松陽の手紙通り、両親に罵られていたは自分を卑下してしまう質だった。
は何も悪くないというのに、なんと憐れな。

高杉は腕に抱え込んだをぎゅっと自分の胸へ押し当てた。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
松陽さえ生きていてならば、も、自分もこんなにも悲しみに満ちることはなかった。

奪われた、一番大切なものを。
自分とはきっと同じ境遇にいるのだろう。
自分にはあの人しかいなかった、にもあの人しかいなかった。



高杉はもう一度名を呼んで、の顔を上げさせた。

『俺ァ、あの人の意志を継いで戦う。お前さん…ついてくるか?』

手紙の最後に松陽は、もし自分に何かあったらを頼むと書き残していた。
松陽の意志を継ぐのも、を護るのも、自分にしかできないと高杉は芯から思っていた。

暫くして、が頷いた。
その顔は涙と泥で汚れていた。
だが、この世界で唯一、だけが色鮮やかに目に映った。
冷たい雨が降り注ぐ中、腕に抱くこの小さな少女だけが温かかった。




高杉は銀時めがけて勢いよく抜刀した。
銀時は間一髪のところで後退り、その間合いから抜け出した。
だが、銀時は腰に挿した木刀に触れようともしない。

「一体、何が言いてェ?」

「…あのお嬢ちゃん攫ったのは、あの子に似てるからか?」

その問いに高杉は笑いが込み上げてきた。
銀時が言っているのは多分、あの真選組の女中のことだ。

「あの女を掻っ攫ってきたのは下っ端だ。
町中で真選組の副長サンといるところを見たらしくてなァ。
…土方の女かと思ったが、なんだ、お前も気があるのか?あの女に」

「あらら、やけに見下すじゃねーの」

「ハッ、見下さずにはいられまい?」

高杉はもう一度、銀時に向けて刃を振りかざす。
銀時はまた避けたが、その隙に懐へ高杉の回蹴りが入ってきた。
その衝撃で銀時は吹き飛びそうになったが、なんとか地に手をついて体勢を保つ。

「何も知らずに平凡に生きてきたような女が幕府の犬と馴れ合ってんだ…あの容姿でなァ」

「…んだそれ、完璧八つ当たりじゃねーかよ」

「アァ?」

八つ当たりという発言が気に食わないと思った矢先。
高杉は自分に向かってきた刃を咄嗟に防いだ。
ギチギチと軋み合う刃の向こう側では銀時が高杉を睨み付けていた。

「八つ当たりだっつーんだよ、てめーのその言い分は。
気に食わないからって人の幸せ邪魔するって、なんだ?てめーは毛も生えてねーガキか?」

ギチッと強く音を立てて互いの刃を離れ、それぞれ飛び退けて間合いを取る。

「…別にあの女のことなんざ、それほど気にしちゃいねェ。
ただ、真選組の奴らを蹴散らすのに丁度いいと思ったんで、利用してるだけさ」

言い訳ではなく、それが高杉の本心だった。
利用できるかできないかを考えたら、利用できると思ったから放って置いた。
利用できないのなら、さっさと始末してしまえばいい。

「まァ、結果的にあの女の幸せを邪魔してるってんなら、いい気味だと思うのは確かだがな」

「…優しくねーな、高杉さん。そんな姿見たらあの子、怖くて泣いちゃうぜ?」

銀時はわざと、かつてが呼んでいたように高杉を呼んだ。
それが高杉を苛立たせた。

高杉は容赦なく銀時へ刀を振りかざした。
銀時もそれを一心に防ぎ止める。
だが、銀時は自分から仕掛けては来ず、防戦一方だ。

そのうち、銀時は何かに気づき、高杉の間合いから完全に離脱して思わぬ方向へ駆け出した。
逃げるのか、と駆け出した銀時のほうへ高杉が振り返る。


「…あの女ァ」


銀時が向かう先には、牢に入れていたはずの真選組の女中がいた。
女は駆け寄ってきた銀時に縋って、何か必死に話している。
それは、がいた頃とまったく同じ光景だった。
高杉はギリッと奥歯を噛んだ。


どいつもこいつも、どうして思い出させやがる…


もう取り戻せないとわかっているものに焦れるほど滑稽なことはない。
そんなことに囚われている暇など自分にはない。




高杉はニヤっと妖しい笑みを浮かべ、銀時と女のもとへ歩み寄る。
その手には、銀色の牙を携えて。














何もかもすべて消し去るために















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